Friday 27 January 2012

2011年「志村正彦展」 企画展レポート6 最終回

(河口湖から見た富士山)

さて、予想以上に長くなってしまったこの企画展レポートも、いよいよ最終回となりました。
今日は、展示会場外にあった展示物をご紹介致しましょう。

実行委員の予想を上回る来場者の多さ(山梨日日新聞によると、約2000人の方がご来場下さいました)に、まず驚きました。会場は3階でしたが、1階のロビーまで続く長蛇の列。こんな札も、会場内の階段に貼られました。

同級生の皆さんの心遣いが、憎いですね。



そんな長い待ち時間の中、ファンの皆さんが壁に貼られた高校生の小論文を、一生懸命読んでいるのが見受けられました。

あの文章は、山梨県立甲府城西高校の小林一之教諭が指導する、生徒さんの小論文です。(学校案内はこちら 山梨県立甲府城西高等学校)志村正彦君の書く歌詞が、「小論文演習」という授業の中で取り上げられ、その様子が山梨日日新聞の記事にもなりました(平成23年6月30日付)。以前、このブログでも皆様に紹介しましたので、ご記憶の方もいらっしゃるかと思います。(2011年7月5日記事)

この企画展にあたり、小林先生と生徒さんが新たに書き下ろして下さった文章が、階段の壁に展示されました。ここでは小林先生がお書きになった文を、ご紹介したいと思います。

志村正彦の夏       小林一之


 志村正彦にとって、夏は特別な季節である。夏を舞台としない歌の中でも、時に触れられることがある。


 短い夏が終わったのに 今 子供のころのさびしさが無い (『茜色の夕日』)
 冷夏が続いたせいか今年は なんだか時が進むのが早い (『赤黄色の金木犀』)
 真夏のピークが去った 天気予報士がテレビで言ってた (『若者のすべて』)


 「短い夏」「冷夏」そして「真夏のピーク」。夏はいつものように過ぎ去るが、彼は佇立し続ける。彼はたたずみ、季節を言葉と音に織り込んでいく。夏の記憶の織物は、フジファブリックの作品となって、ここ十年の間、私たちに贈られてきた。中でも『陽炎』は志村にしか表現しえない世界を確立した歌である。


 あの街並 思い出したときに何故だか浮かんだ
 英雄気取った 路地裏の僕がぼんやり見えたよ (『陽炎』)


 夏は、想いの季節である。夏そのものが私たちに何かを想起させる。「街並」「路地裏」という場。「英雄」、幼少時代の光景。楽しかったり、寂しかったりした記憶が「次から次へ」と浮かんでくる。
 夏は、ざわめきの季節でもある。人も、物も、風景も、時もざわめく。「陽」が「照りつけ」ると共に、何かが動き出す。そのとき、「陽炎」が揺れる。


 窓からそっと手を出して やんでた雨に気付いて
 慌てて家を飛び出して そのうち陽が照りつけて
 遠くで陽炎が揺れてる 陽炎が揺れてる (同)


 『陽炎』はここで転調し、詩人の現在に焦点があてられる。


 きっと今では無くなったものもたくさんあるだろう
 きっとそれでもあの人は変わらず過ごしているだろう
 またそうこうしているうち次から次へと浮かんだ
 出来事が 胸を締めつける (同)


 今では「無くなったもの」とは何か。特定の他者なのか。風景なのか。十代や青春という時間なのか。あるいは、過去の詩人そのものなのか。そのすべてであり、すべてでないような、つねにすでに失われている何かが「無くなったもの」ではないのか、などと囁いてみたくなる。
 喪失という主題は青春の詩によく現れるが、大半は、失ったものへの想いというより、失ったものを悲しむ自分への想いに重心が置かれる。凡庸な詩人の場合、喪失感は自己愛的な憐憫に収束するが、志村の場合は異なる。彼の詩には、そのような自己憐憫とは切り離された、失ったものそのものへの深い愛情と、失ったものへ、時に遠ざかり、時に近づいていく、抑制された衝動がある。そして、喪失を喪失のままに、むしろ喪失を生きなおすように、喪失を詩に刻んでいった。それは彼の強固な意志と自恃に支えられていたが、「胸を締めつける」ような過酷な歩みでもあった。
 四十年を超える日本語のロックの歴史の中で、志村正彦は絶対的に孤独である。その孤独ゆえに、今、私たち一人ひとりとつながり続ける、永遠の作品として屹立している。


寒冷地、富士吉田の地で、「夏」は短く儚い季節です。だからこそ、「生」と「動」脈動の季節への賛美や喪失感が、より強いのかもしれません。志村君の作り出す歌詞、特に自然に対しての独特な感性は、日本の俳句や短歌の世界と共通するものが多く、世界に誇る文学作品の一つだと私は常々思っています。

小林先生の語彙力豊かな日本語を読むと、フジファブリックの歌詞世界の素晴らしさが、より深く理解できると思います。他の曲についても、ぜひ読ませていただきたいと思いました。

授業のためにフジファブリックの曲を聴いたのがきっかけで、ファンになったという生徒さんたちがとても多かったのは、フジファブリックファンとしてとても嬉しいことでした。
生徒の皆さんは、私の予想以上にとても深く歌詞を読み、曲を聞き込んでいらっしゃって、「陽炎」「赤黄色の金木犀」「若者のすべて」(授業で扱った曲)を通して、自分自身を投影させ、志村君の伝えたかったことを想像して書いているのが伝わってくる文章ばかりでした。

志村君の曲は、全く聴き手を限定しません。
生まれ育った地元で多感な時期を迎えている高校生にも、遠くふるさとを離れて暮らす私のような境遇の人にも、両方の心に響く歌がある。
それだけで、すごいことだと思うのです。

これからも折をみて、甲府城西高校 小論文演習クラスでの「志村正彦の歌を語りあう、授業の試み」について、このブログでお伝えできたらと思います。



会場を後にして、てくてく下吉田駅に歩いていくと・・・。同級生の仕掛けたビッグサプライズが!下吉田駅隣の駅カフェに展示されていた、志村君のカブです。シークレットサプライズとして展示されたのですが、大勢のファンが見に行ってくれました。

日記にもでてくる一度盗まれたというカブ。(「東京、音楽、ロックンロール」2009年9月参照)そう、志村君を「無駄にプチセレブ」にしたあのカブです。同級生W画伯の絵付きで、展示されました。下吉田駅の壁面と志村君のカブ、同じような色だったのですね。
実物の写真が、2012年1月25日付 山梨日日新聞電子夕刊に掲載されていますので、そちらをご参照ください。山梨日日新聞電子版


ここでもう一つ、今までの記事に補足です。

大人気だった「赤ベンチトーク」について、ファンの皆様から「ぜひ文字起こししてください!」というリクエストをたくさん頂きました。私の正直な気持ちを申しますと・・・あの赤ベンチトークは、実際志村君と同級生が昔、座ってよく話をしていたという木製ベンチを目の前に、左右後ろを志村君の昔の写真や思い出の品々に囲まれて、胸がいっぱいになってしまった時、同級生がとても楽しそうに語るまさひこくんとの思い出話が、何処からともなく流れてくる・・・というところに最大の意味があったと思うのです。

録音されていたトークを文字に起こせば、その時点でほとんどの価値を失ったといっても過言ではないでしょう。

ただ企画展に来られなかったファンのお気持ちもよくわかりますので、一つだけ思い出エピソードをご紹介させていただきます。

下吉田中学時代、文化祭のときのこと。同級生皆で、TOKIOのデビュー曲「Love You Only」を歌ったのですが、まさひこはバックコーラス担当でした。今にして思えば、後々フジファブリック ボーカル・ギター担当のまさひこが、バックコーラス・・・?と、思うけど、あの時は本人も含め、同級生も誰一人、まさひこがバンドのボーカルになるなんて考えていなかったからな。

・・・というものでした。
志村君が東京に行って「フジファブリック 志村正彦」になったということを知ってはいるけれど、同級生の心の中ではいつでも「同級生のまさひこ」のままなのです。そしてこれからも、「まさひこ」はずっとずっと彼らの仲間でい続けるのですから、公の場である「赤ベンチトーク」で語られたエピソードは、当然「正しい同級生の語らい」です!



6回にわたって書いてきましたこの企画展レポート、今日で終了致します。
拙いレポートでしたが、読んで頂きありがとうございました。企画展に来たかったけど来られなかったファンの皆さん、楽しんでいただけましたでしょうか。

正直な気持ちを申しますと、志村正彦ファンにはやはり富士吉田の街に一度は来ていただきたいと思います。なぜなら楽曲の根底に流れるものや、志村正彦の持つ真の魅力は、やはり富士吉田の地で生まれ育まれたものだと思うからです。あの街の風、空気、日差し、雨、草木や花、そして人々に触れて、それを肌で感じていただきたいと心から願います。

志村君と彼の書く音楽の魅力は、とても書き尽くせるものではありませんが、この企画展を通して特に強く感じたことがありました。
それは志村君という人は、ごくごく「普通」の環境で、「普通」に育てられたこと。それが彼独特の繊細な感性をもって、天才的な音楽性と文才を通し表現されたこと。そしてその陰には、強固な意志と、凡人には真似もできない努力があったこと。

だからこそ、彼の人となり、彼の作った音楽は今なお多くの人の心を打ち、ファンが増え続けていっているのだと思います。
「あなたと出会えてよかった」と同時に、「一度だけでも会いたかった」という複雑に入り混じった気持ちを抱えて、これからももっともっとファンは増えていくことでしょう。

最後に・・・。
このブログの記事を書くにあたって、快く作品の掲載を許して下さった甲府西高の赤池先生、美術部員の皆さん、城西高校の小林先生、ありがとうございました。
また展示品の説明文を監修して下さった実行委員代表、英訳監修をしてくれた親友セリーヌ。
ありがとうございました。

「志村正彦展」は、私の一生の思い出となりました。感謝の気持ちでいっぱいです。
これからも皆さんと一緒に、志村正彦君が大きく世界に羽ばたいていく姿を、見続けたいと思います。
ありがとうございました。

志村正彦展 「路地裏の僕たち」実行委員一同より 
「皆様、ありがとうございました。」

今日の一曲は、やはりこの曲。「陽炎」です。実行委員の一人が、「校歌だと思っている」と言っていたほど、富士吉田がつまった一曲です。

Thursday 26 January 2012

Masahiko Shimura Exhibition, 'Rojiura No Bokutachi' in Fujiyoshida City - Report 1



Happy New Year!
Best wishes for the New Year 2012 to bring you the everlasting glow of happiness, merriment and good fortune.

Sorry to keep you waiting!
Today, I am writing a post on the Masahiko Shimura Exhibition in Fujiyoshida City which was held on 23rd, 24th December 2011. The dates for Exhibition coincided with the day that Shimura kun passed away 2 years ago; all the staff (his classmates) nevertheless did their best to make visitors feel welcome and happy by giving out big smiles. About 2,000 people came from all over Japan, and had to wait on average over 2 hours to enter the exhibition! Despite the long queues, everyone was showed great respectto each other with impeccable manners, courtesy and politeness. I was so proud to be one among Fujifabric fans!

For those fans unable to attend from overseas, don't be disappointed!
Thanks to the executive committee (Shimura kun's friends from Kindergarten, Primary and Secondary School), I was invited to write a report on the Masahiko Shimura Exhibition to be illustrated with many photos! It is their and also my pleasure to give those who could not attend Exhibition a notion of the hearty and warm atmosphere that reigned throughout the event.

I will do my best to write a report worthy of a writer. Thank you to my best friend, Celine, who has given me her support over the last 20 years, and corrected my poor English.



On both 23rd, 24th December 2011, blessed with cold but good weather, beautiful Mt. Fuji capped with snow, could be contemplated from the Fujiyoshida Civic Hall. There were many fans saying, "The first impression of Fujiyoshida City is Big Mt. Fuji!". The grey building of Civic Hall looked splendid in contrast with clear blue winter sky.

At the entrance, a standing sign welcomed all (see the picture above).

This Exhibition was originally planned by the Shinmachi neighbourhood council, but later, it was handed over to Shimura kun's friends from Kindergarten, Primary and Secondary School in his hometown. The greeting words from his friends were quietly posted up on the board in the Exhibition : allow me to take this opportunity to introduce those words to you today.

(The picture shows the executive committees for the Masahiko Shimura Exhibition - Rojiura No Bokutachi)

The rock band, Fujifabric, led by Masahiko Shimura from Fujiyoshida City, Yamanashi Prefecture, did not achieve fame through mass media coverage such as TV, but rather though its distinctive music style. It is not a group widely known to the general public, but has grown over time to become a band loved by a greater number of fans than people in Fujiyoshida could even imagine.


Class mates from Shimo Yoshida Daiichi Primary School, Shimo Yoshida Junior High School, and Yoshida High School gathered and formed a rock band, and went to Tokyo with the aim of launching their debut in 2000. After many twists and turns, the 1st indie album was released in 2002, and the band achieved its major debut in 2004. Many fans were mesmerized by the ingenious lyrics and melodies written by Shimura, and also by his vocal talent which clearly showed that he put his whole life into his songs.


In 2005 and 2008, albums were released, and concerts started expanding to bigger halls like Hibiya Yagai Dai Ongakudo (Hibiya Outdoor Concert Hall) and Ryogoku Kokugikan (Hall usually used for Sumo matches, but nowadays occasionally used for other purposes, such as music concerts).
On the 31st May 2008, Shimura's big dream came true - to hold a concert in Fujiyoshida Civic Hall, in his hometown. The hall was filled with many fans including his old classmates, and the concert started with a song, 'Daichi Sansho' (literally meaning 'Praise to Earth') and it became a legend thereafter among Fujifabric fans.


In May 2009, the 4th album was released celebrating a new step in their musical progression. The band was expected to occupy a more active role on the Japanese music scene, but on the 24th December 2009, Masahiko Shimura suddenly left this world.


During his lifetime, Masahiko Shimura loved Fujiyoshida City from his heart, and left his thoughts in his songs. In interviews, he always talked about his hometown, and we believe that Fujiyoshida occupied a great place in his heart.
Many of his fans think of Fujiyoshida City constantly even now, and young folks looking-like Fujifabric fans are often seen taking a walk around Shimo Yoshida area.


We, Masahiko's class mates, planned this Exhibition in order to give a chance not only to fans but also to Fujiyoshida citizens to understand the thoughts of our friend, Masahiko, who kept chasing after the boyhood dream that everyone used to have.


Three kinds of 'Hearts' are displayed here thanks to the kind support from Masahiko's parents - Masahiko's passionate heart for music and the footprints of his own music which he has now left behind, ; our heart to Masahiko, our classmate ; and the heart from Fujifabric fans thinking of Masahiko forever.
By a curious coincidence, the Exhibition was held on the day of the second anniversary of his death, but please do not mourn - rejoice and enjoy the feeling Masahiko is here with us.
Thank you to Masahiko's parents who accepted our tough requests with smiles, officials and staff in the management office that he belonged to. Thank you to you, Fujifabric fans who keep showing your eternal love to Masahiko, people in Fujiyoshida, the place he always loved, and of course the Fujifabric members who decided to continue with the band.
All of you made this Exhibition happen.
Thank you from the depths of our heart to you all.


From Exhibition staff



On that morning just before10 o'clock, before opening the entrance door, I heard staff, Masahiko's classmates, staring to sing the emblematic memorable song, 'Daichi Sansho' (literally meaning, 'Praise to Earth') in chorus to unite their hearts together.
The chorus consists only of adult male bass and tenor voices. Looking at there grown men singing in attractive low-pitched voices while their faces expressed the glow of youth made me feel "Something special and big is about to begin here..." and my heart started pounding fast with excitement.

I will write more in the next post.
A big photo of Masahiko Shimura used in the farewell ceremony in January 2010, letters and drawings from fans, photos take in concerts and in his childhood, guitars, amplifiers, cloths, etc.
There is still a great deal to cover!

Many Fujifabric songs were played in the exhibition hall. Today though, I have chosen the song, 'Kagero' (see English translation in the column on the right). 'Myself in the back of an alley    posing as a hero' is still a hero among all the boys in the town!

Wednesday 25 January 2012

山梨日日新聞 1月25日付電子夕刊 「志村正彦展の舞台裏」掲載予定!



今日1月25日付、山梨日日新聞電子夕刊に「志村正彦展の舞台裏」という記事が掲載予定です。
23日朝刊「ときめきゾーン」に載った記事とは、また違う内容ですので、ぜひご覧になってみて下さい。
電子版ですと、山梨にいなくても読めますから便利です!
ちなみに私もいつも利用しています。

地方色豊かで思わずほのぼのする記事だけでなく、原発問題にも関心が高いため、大変勉強になります。

電子夕刊は15日間、無料試読ができますので、詳しくはこちらのホームページからどうぞ。
山梨日日新聞 電子版

今朝の朝刊(電子版でも、山梨県内で販売されるものと同一)には、一面銀世界の富士吉田市、忠霊塔からみる富士山が写真付きで載っています。そしてその横にある「きょうの紙面」欄(新聞の目次のようなもの)には、「フジファブリックの『志村正彦展』舞台裏に迫る」の文字が!
よかったらこちらもご覧下さい。


今から夕方5時が、待ち遠しいです!

Monday 23 January 2012

2012年1月23日付 山梨日日新聞 「ときめきゾーン 志村正彦企画展に2000人 特別な場所へ『会いに』」

春節 あけましておめでとうございます      

今年2度目の新年のご挨拶ですが、どうぞ本年もよろしくお願い申し上げます。
バンコクでは朝から爆竹が鳴り響いており、街は一段と活気を増しております。
日本では子供にあげるお年玉ですが、タイ華僑の社会では子供に限らず、「目上の者が目下の者にあげる」ものなので、大人も子供もニコニコ顔。きれいな装飾が施された大小様々なお年玉袋も、季節を感じる風物詩です。




企画展レポートの途中ではありますが、企画展からちょうど一ヶ月がたった今日(2012年1月23日)、山梨日日新聞に志村正彦展に関しての記事が掲載されましたので、お知らせ致します。

「ときめきゾーン芸能面」トップ記事として、掲載されました。
以下、少しだけご紹介させていただきます。


今回、展示品を選ぶ際に実家から発見されたという志村君手書きのメモ。
そこには将来の目標が丁寧に箇条書きされていたそうです。
「もっともっと多くの曲を書く」・・・。

志村君にとって思い出の場所、富士五湖文化センター(地元民は今でも「市民会館」と呼ぶ)には、12月23、24日の両日で、実に2000人ものファンが志村君に「会いに」きました。ファンのコメントをいくつか取り上げ(出口においてあったノートに書かれていたものも含めて)、志村君の存在が、今なお変わらず大きいことを伝えています。山梨のファン、宮城のファン、埼玉のファン、フランスのファンなど、日本だけでなく世界中からファンが訪れていたことが書かれています。

また企画展実行委員代表であり地元一の親友、元フジファブリックドラマー 渡辺隆之さん、正彦君のお父様、お母様の言葉も載っています。

沢登雄太記者の書く志村君に関する記事は、簡潔かつ明快、要点を的確に捉えた文章ですが事務的ではなく、いつでも奥底に温かさを感じるものであります。
以前もこのブログで取り上げましたが、山梨日日新聞は山梨県域の地方紙で、県内の購読率は70%を上回ると言われています。お悔やみ、お誕生、結婚など生活に直接関係する事柄も多く、山梨県民にとって、大手新聞とは全く違う位置にあるのが山日です。「結婚して所帯をもって、山日(さんにち)をとったら一人前の大人」という独特の感覚には、このような背景があるのです。

これまで山日では、志村君のことを何度も取り上げて来ました。地元、山梨県で、特にロックを聞かない世代にまで、フジファブリック 志村正彦がここまで浸透してきたのは、山日によるものが非常に大きいと思います。

山梨日日新聞は、電子版でもご覧になれますし、お取り寄せもできます。
詳しくはこちら、山梨日日新聞社ホームページにて、ご覧下さい。

今日の一曲は、「黒服の人」です。
ここ何日か雪が降り続いた富士吉田。積雪20センチほどだそうです。雪の降っているときよりも、雪の後の方が寒いのですよね・・・。
寒い冬のお葬式の情景が目に浮かぶ、この曲。音楽も歌詞も、最高峰のものです。「余人に替え難い」志村君の歌声は、今でも私たちの心に寄り添い、心に鳴り響きます。


Thursday 19 January 2012

2011年「志村正彦展」 企画展レポート5

作曲コーナーをすぎると、今度は絵画コーナーです。

フジファブリックメンバーの似顔絵つきメッセージ、紙でできた桜の花びらにうもれて笑っている志村君の写真、志村君の頭上にある富士山から日が昇るという構図が印象的な絵、オーストラリアのファンから国際便で送られてきた猫・富士山・ギターなど好きなものに囲まれている志村君の絵、などが展示されています。

「言葉にできないことを表現する」という点で、音楽も絵画も同じなのだと改めて実感。
衣食住が足りたからといって、人間は心豊かに暮らせるというものではありません。心の潤滑油として芸術を求めます。それは時に文学であり、絵画であり、音楽であります。
「音楽がなくてもいい人にはなりたくない」と、志村君は言っていました。

音楽の天才は、ファンからもらった絵や手紙を通じて、皆の気持ちを誰よりも敏感に感じてとってくれていたでしょう。そしてその大切さや温かさを、人一倍感じてくれていたのではと思うのです。



その隣には、山梨県立甲府西高等学校美術部員が出展した作品の数々が展示されています(学校案内は、山梨県立甲府西高等学校公式ホームページをご覧下さい)。現西高美術部顧問の赤池宏己先生は、かつて吉田高校で教鞭をとり、志村正彦君高3時の担任でいらっしゃいました。
会場に展示されていた吉高卒業アルバムの中、志村君のすぐ右に写っていらした担任の先生です。会場にいらしたファンの皆さん、気がつきましたか。

卒業アルバムの中の先生はとてもお若くて、志村君の髪型がなぜか先生と似ていて、思わず笑みがこぼれました。

フジファブリックファンの中には、2010年7月18日付け山梨日日新聞に掲載された「フジフジ富士Q」の記事を思い出す方もいるかもしれません。会場にいらした先生は山日のインタビューを受け、「多くの有名アーティストが志村君の曲を演奏しているのを聞き、音楽活動をがんばっていたことがあらためて伝わってきた」と感慨深げに話していらっしゃいました。

美術の先生である赤池先生が、音楽を志す多感な時期の少年に、どのような指導をなさったのでしょう。県下でもトップ3にはいる進学校、吉田高校で、芸術を解する赤池先生が最終進路を決める高3の時に担任だったことも、運命的な気がしてなりません。

先生の思いがこめられた作品が、会場に展示されました。
タイトルは「十代の君」(油彩)。

「正彦君は、いつもニコニコ笑っていた。透明な笑顔だった。たまに遠くを見るような、なんともいえない目をするのが、印象的だった。自分の記憶の中にいる彼を、描いてみました。」と、先生はおっしゃっていました。
吉高の制服に身を包み、その通りの表情の志村君が、絵の中で静かに佇んでいました。

2012年1月12日付け山梨日日新聞「ときめきゾーン 高校生」で、赤池先生と美術部員の描いた絵が、写真付きで取り上げられました。高校生たちのコメントも、心打たれる言葉ばかりです。詳しくは山梨日日新聞電子版にてご覧になれます。(山梨日日新聞電子版)

会場のところどころに、志村君と交友のあったアーティストの皆さんからのコメントが、楽譜台に飾られていました。その内容はここではご紹介できませんが、皆さん、ご自分の言葉で志村君への思いを、丁寧に丁寧に語っていらっしゃいました。
コメントを寄せてくださった皆さんに共通していたことは、みんな志村君の不思議な魅力(両極を併せ持っているようなところ)にノックダウンされ、彼を大好きだったこと。
彼はプロが惚れ込む音楽を作っていたこと。
そして、フジファブリックの音楽は、志村正彦、そのものだったということ。



どうしても最後はしんみりとしてしまい、涙を流しながら会場を出てくるファンも多かったのですが、そこを出口の同級生が困った顔をしながら、優しい声で呼び止めてくれます。

「あの~・・・、記念に、富士吉田の絵葉書をどうぞ。」
忠霊塔の桜と富士山、吉田のうどんぶりちゃん、などなど5,6種類の絵葉書の中から数枚、好きなものを下さいます。


「もしこの後、富士吉田の街を散策なさるのでしたら、このマップもどうぞ。」と、「吉田のうどんマップ」「富士吉田 下吉田・月光寺界隈マップ」「道の駅 富士吉田」など、ファンの要望に見合ったものを手渡して下さいます。

志村正彦展の最後を締めくくるに相応しい、まごころのつまった贈り物でした。

それを手に握りしめ、2,3歩いくと、左手にノートがおいてあります。「し」「む」「ら」「ま」「さ」「ひ」「こ」と表紙に書かれた計7冊のノート。その上には2008年凱旋ライブの時、月江寺駅に掲げられていた思い出の横断幕が飾られています。

ファンが自分の思いを書くノートです。
長い時間、思いを巡らせて一生懸命何かを書いているファンの横顔が、忘れられません。若い男性も女性も、子供も、ご年輩の方も、ひとりひとり真剣な表情で、ノートにメッセージを書いていらっしゃいました。
こういう真摯な態度も、フジファブリックファンらしいな、と思います。

次回は、「展示物 番外編」です。
同級生の皆さんが巧妙に仕掛けたサプライズに、心躍ったファンも多かったことと思います。長い待ち時間をもてあますことがない様にと、階段通路の壁にはられた高校生の小論文。下吉田駅隣の駅カフェにあったものは・・・?
一挙、公開致します。

今日の一曲は、「まばたき」です。
赤池先生の絵の中でほほえむ志村君を見ていたら、なぜかこの曲が心に流れてきました。You Tubeの映像が見つからないのですが、ぜひこの記事に合わせてお聴き下さい。名曲です。

To English Readers

Sorry to keep you waiting, but an English translation of the posts on the Masahiko Shimura Exhibition in Fujiyoshida City, which was held on 23rd, 24th December 2011, are coming up soon.!


Tuesday 17 January 2012

2011年「志村正彦展」 企画展レポート4

今日は展示されていた楽器について、ご紹介させていただきます。

・・・といっても、私は全く楽器に詳しくないので、展示品に添えられていたダンボールの添え書きを頼りに、お伝え致します。


まずアンプから。
写真右奥にあるのが、「Matchless」のギターアンプです。
同級生の書いた添え書きを、ご参照下さい。

アンプ マッチレス 
結構、高いものらしいです。
日本に数台しか入ってないとか。
いつだか吉田に帰ってきたときに自慢された思い出が。
後期のライブで使用されていたかと思われます。
確か総君がこのアンプに乗っかってコケて一度壊れたとか。

あれだ!あのアンプ!!
志村日記にも登場する有名なアンプです。

「ロックだぜ!2009」in 福岡での出来事。

「盛り上がりました。盛り上がったのは良いけれども、ソウ君が俺のアンプをすっ飛ばしまして、アンプが壊れました。ソウ君に怪我が無かったのは良かったですけど、俺のアンプが。初期MATCHLESSなのに。日本に3台しか無かったのよ。最近売ってるものとは訳が違うんですよ。
ライブ後、電源入れたら煙が出てきました。多分神に召されました。
ライブはそれはもう楽しみまして、ハンドマイクで歌い上げました。今度レコーディングあるのにどうしましょう。頼むよ、ソウ君。」(「東京、音楽、ロックンロール 完全版」2009年8月23日付け)

この模様、DVDでもご覧になれます。

その後、アンプは元気に志村君の元へ、ご帰還!今は志村家に、大切に保管されています。

「そうです。ソウ君に壊されたギターアンプ、MATCHLESSが帰ってきました。なんとほぼ無傷の状態(フューズ交換のみ)で帰ってきました。ソウ君は安心して僕に電話してきました。良かったな、ソウ君。膨大な違約金を払わずに済んで。車買えるよ、ほんとに。」(「東京、音楽、ロックンロール 完全版」 2009年9月4日付け)

このアンプ、車が買えるほど高価なものなのです。メレンゲのクボさんもインタビューでおっしゃっていましたが、志村君は楽器や機材に投資することを、全く厭わなかったそうです。いかに自分の音楽を作り出す「音」を大切にしていたのか、わかります。

その気概は展示されていたこのギター、ギブソン・レスポール・スペシャルのエピソードにも、表れています。(上部写真 一番右)再度、同級生による添え書きをどうぞ。

高校生の時に金貯めて、初めての10万越えのギター。
奥田民生に憧れて買ったと言っても過言ではありません!(当時の友人談)ちなみにインディーズの頃、新宿loftでリハ終了後にネックが一回折れてます。本番までに時間があったので、正彦は折れたギターとクラフトショップへ。正彦が落ち込んでるであろうと思った男メンバー(元ベース・加藤雄一 2001-2002、元ギター・萩原彰人 2001-2002、元ドラムス・渡辺隆之 2000-2003)は励ましてやろうと思ったが ギターを治すお金なんかも当然持っているはずもないので、色々と考える・・・。ピカーン!!お金がなくたって励ます方法があるジャマイカー!名案も出たしと、外に出て待ち伏せフォーメーションを確認したところ 正彦、案外早く普通な感じで帰ってくる。今だぁぁと東京は新宿歌舞伎町の(東京砂漠)ど真ん中で胴上げ!!胴上げ後の彼は「なに?なにっ?」とうざったそうにひたすら連呼していましたが、その表情はとても嬉しそうな顔をしていました。(当時のメンバー談)

楽しいほのぼのエピソードです。
一生懸命バイトで稼いだお金で買ったギターです。高校生が、バイトで10万円を超えるお金を貯めるのは、簡単なことではありません。

写真中央にあるVOXのギターアンプにも、おもしろエピソードがありました。
添え書きの写しを、どうぞ。

アンプ VOX ac30ロックといったらライブです。ライブったらライブハウスへ行きましょう。ライブハウスへ行けば、ミュージシャンの生の音、生の演奏を聞けるのです。フジファブリックも最初は小さなライブハウスからスタートしました。最初からロックしてた訳でもなく、お客さん二人だけのライブもありました。それでも当時からギターサウンドには熱い情熱を持っていたんですね。お客さんが少なかろうが、自分の奏でるサウンドには嘘はつけません。ギターったらアンプ。アンプったらギター。お客さん二人でも、ノルマが二万だろうが、アンプは持ち込みます。ちなみにこのVOXは二代目です。VOXのアンプだけでも5台は持ってたとか。ライブ映像でもおなじみですね。

微妙な音の違いが、鋭い感性を持つ人の耳には、ずいぶん違って響いたのでしょう。ここでも、機材へのこだわりがみえます。

写真一番左のギターは、両国国技館のライブDVDでも弾いている、あの赤いフェンダーです。

その隣が、5th album 「MUSIC」のジャケットになったペイル・ブルーのFenderストラトキャスターです。想像していたよりも年季がはいっていて、「ああ、これがグラフィック・デザイナーの北山さんが、ブログで書いていたあのギター・・・。」と、見入ってしまいました。
(北山雅和さんのブログに、ギター撮影時の様子が書いてあります。志村君が亡くなった後にファンになった方たちには、共感できるところが多いと思いますので、お薦めします。フジファブリックとフジファブリックの新作「MUSIC」。そしてフジファブリックの新作「MUSIC」のアートワークについて。 M原さん、情報提供ありがとうございました。)

透き通る氷河のようなペールブルーで、後ろの窓から見える富士吉田の冬の風景に、溶け込んでいるようでした。

ステージパス(ライブハウスに入るとき、フリーパスで入れるもの)も多数ありました。ミュージシャンは、このフリーパスをエフェクターボックスなどに貼るのを、好むらしいです。(同級生談)上箱にもペタペタと・・・。

この添え書きの下には、「消えるな太陽」「ダンス2000」などが入ったテープがあります。聞いてみたいですね~。ハーモニカ、エフェクターもありました。

推敲に推敲を重ねた後のみえる手書きの歌詞もあります。「虹」はこうして今の歌詞に落ち着いたのでした。
「宮沢賢治記念館で見た『銀河鉄道の夜』の原稿も、こうしてたくさんの線や文字が書かれていたっけな」と、ふいに思い出しました。
志村君の書く独特な歌詞世界は、小説や詩にとても近いものですから、作家のように言葉を何度も何度も反芻しては、選んでいたのに違いありません。



作曲をしていた赤いnordのピアノも、目を引きました。曲によって、ギターを使ったり、ピアノを使ったり、使い分けながら作曲していたようです。そういえば、「陽炎」も、ピアノで作った曲でしたね。


作曲に使われていたMACのPCも、おいてあります。

無から何かを生み出す作曲という作業。
「音を作る」だけではなく、曲に命を吹き込むのです。
素人には想像もできないことですけども、特に自分の音に妥協を許さない人だったから、大変なことだったろうと思います。2008年11月26日付け志村日記でも、作業の様子が記されています。(「東京、音楽、ロックンロール 完全版」より)

「フジファブリックの曲は、ここから誕生したんだ。あの音を支えた楽器や機材たちなんだ。」と思うと、ただの無機質なものにはどうしても見えず、「ありがとう」の気持ちでいっぱいになりました。

今日の一曲は、「花屋の娘」です。フジファブリック独特の、キーボードが光る一曲です。

Monday 16 January 2012

2011年「志村正彦展」 企画展レポート3

前回に引き続き、展示品のご紹介です。
「ご来場できなかった多くのファンのために、臨場感をもってお伝えしています!」と、いうと聞こえが良いのですが、記憶の糸を辿りながらこの記事を書いているため、順路通りに記事は続いてまいります。

楽しい赤ベンチの次は、正彦君の主に幼少時代から高校卒業までの写真コーナーです。

ご家族と一緒の七五三、保育園のお遊戯会(全身真っ白で、目の周りを黒く縁取ったパンダさん)、卒園式、下吉田第一小学校入学、「陽炎」でおなじみの「隣のノッポ」と一緒に写した納涼カラオケ大会、お祭り、小学校の遠足(正面でピースしている)、小学校の修学旅行、合宿(旅行?)の脱衣所、山日杯富士吉田市少年野球大会、吉田高校入学式、フジファブリック旧メンバー・現メンバーとのスナップ、などなど。
小中高の卒業アルバムも飾ってありました。

「小さい頃は、がっちりしていたんだな。」
「昔から、あまりお顔は変わっていないんだな。」
「こんな少女漫画から抜け出たような少年が、クラスにいるってありなの?」
「この子が、ああいう音楽をかいたんだ。」

皆さんいろいろな感想をお持ちになったと思いますが、私個人的にはこのコーナーを見るのが一番辛かったです。「Chronicle」からは、想像もつかない天真爛漫であどけない表情ばかりで、志村正彦という人が生きた29年間の重みを感じました。
また、この写真に一緒に写っている友人たちが、この企画展を支えてくれているのかと思うと・・・感無量でした。
幼年時代の写真が比較的新しかったのが、何より辛かった。


ウルウルしていてはいけません。列は前に進みます。
次は思い出の衣裳コーナーです。

「あ!これはあの時の・・・。」と思った方、多かったのではないでしょうか。代表的なものを、数枚掲載致します。
羽のついた帽子をかぶり、このカーディガンを着て、「Surfer King」(「ロックの学園」)を歌っていたのを思い出しました。案外生地が薄かったんだな、というのが第一印象でした(向こうが透けてみえるほど)。
2008年ぐらいから、洒落た衣裳を身にまとい、ステージに立つ事が多くなりましたが、「音楽だけで勝負する!」と頑なにいい続けていた初期の頃、Tシャツにジーンズ姿が定番だった志村君も、個人的には大好きでした。
最後の最後まで、音楽をこよなく愛し、音楽一本で勝負していた人でした。
着飾る必要のない内面から滲み出る美しさを持っている人ですので、外見をどうアレンジするかなんて些細なことは、どうでもいいと思う・・・なんていうと、若い女性ファンたちに怒られちゃいそうですね。

これは忘れもしない、2008年5月31日、富士吉田市民会館で行われた凱旋ライブの時に、着ていたTシャツです。ファンにとっても、きっとご本人にとっても、思い出の一枚でしょう。
このTシャツの開いた胸ぐりから見えた心もとない鎖骨が、私は忘れられません。変ないい方でごめんなさい。でもあの胸元が、今までの苦労を全部物語っているように思えてなりませんでした。「よく、がんばったね。」
「夢の地元ライブ、おめでとう!」
皆の思いが焼きついた、特別な一着です。市民会館で展示されるにふさわしい一枚だったと思います。

これは「両国国技館ライブDVD」で着ていたTシャツです。ノリノリの楽しそうな表情を思い出します。よく見ると、このTシャツも結構凝ってますね。

そしてこの帽子とズボン。「Chronicle」の付属DVDに出てくる帽子と同じ型のものでしょうか。(DVDに出てくる帽子は、「ストックホルムで無くした。」と、言っていましたから、別物かと思われます。)意外に頭の上のボンボンが大きくてびっくり。ざっくりと手編み風で、かわいらしい一品です。
このズボンも「Chronicle Tour」で、履いていましたよね。特徴のある形です。
そういえば、フジフジ富士Qのときに、Puffyも似たような形のズボンを履いていました。あの頃の、流行だったのでしょうか。

このほか、まだまだ多くの衣裳が展示されました(計Tシャツ8枚、カーディガン1枚、長袖Tシャツ1枚、ショートコート1着、革ジャン1着、ズボン1本、帽子3つ)。


志村君が亡くなった後フジファブリックと出会ったファンにとって、ライブで志村君に会える機会は、残念ながらもうありません。そんな中、映像や画像でしか見ることのない洋服を至近距離で見ることによって、志村君の存在をより身近に、現実味を帯びて感じられたのではと思います。

大切なものを、快く私達ファンに見せて下さったご両親様、本当にありがとうございました。思い出の洋服が、今でもまだ志村家のたんすにあるんだと思うだけで、ファンは幸せな気分になれるのです。

この衣装の数々と一緒に、柴宮夏希さんの描いた1st album「フジファブリック」のジャケ原画(発売されて皆さんのお手元にあるものとは、微妙に違うバージョン)と、志村君から夏希さんに贈られたとっとこハム太郎のニット帽、フジフジ富士Qの時、関係者や出演者だけに配られたスペシャルギフトボックス(夏希さんのデザイン)が、ご本人からのメッセージ付きで飾られていました。

柴宮夏希さんは、インディーズの頃から1st albumまでのCDジャケットを手がけたアーティストです。志村君とお年が近いこともあり、インディーズ時代はバンドスタッフも平行して担当していらっしゃったという、フジファブリックを語るには欠かせない方です。

ジャケ原画は、フジファブリックのメンバーひとりひとりの個性を上手く描き出してある、見事なものでした。絵の力は、やっぱり実物を見て感じるものだな、と思いました。(それを言ったら、レポートを書く者として失格ですが・・・)

あの紙にあの絵の具で描いてある原画は、フジファブリックというバンド、そしてアルバムに収められた楽曲の素朴な魅力を、的確に伝えています。
1st albumのクレジットタイトルを見ると、「art direction 志村正彦 柴宮夏希」とありますので、志村君自らアルバムのデザインに携わっていたと思われます。仕事仲間であり、気の合う友人だったのでしょう。



志村正彦夢のステージ、「フジフジ富士Q」のスペシャルギフトボックス(フジフジ富士Q関係者、出演者にのみ配られたもの。DVDを買うと、おまけで付いてくるカードと同じデザイン画が施されている箱)も、夏希さんのデザインです。
温かみの伝わる楽しい絵です。

次回は、いよいよ楽器です!
フジファブリックの素晴らしい音色は、この楽器たちがいたからこそ!
ギターアンプ、エフェクター、作曲に使われたPCもご紹介致します。

今日の一曲は、「記念写真」です。

「記念の写真 撮って 僕らはさよなら
忘れられたなら その時はまた会える
手紙に添えられた 写真見たりするんだろうな
染められた君を見たのなら 何を思う?」

そんなことを考えながら、この写真を撮っていたのかなと、会場で感じずにはいられませんでした。
(You Tubeの映像が見つかりませんでしたが、皆さん、ぜひ聴いてみて下さい)

Tuesday 10 January 2012

2011年「志村正彦展」 企画展レポート2

タイへ戻ってまいりました。
こちらバンコクでは、乾季ならではの清々しい朝を迎えております。山梨での寒い朝が、嘘のようです。
青く高い空をツバメが飛び交い、色とりどりのブーゲンビリアが咲き乱れております。1月23日の旧正月(春節)に向かって、急ピッチで準備が進むバンコク。今年も街が赤一色に染まる季節がやってきました。



さて、2011年12月23,24日に開催されました「志村正彦展 路地裏の僕たち」特別企画展レポート第二弾です。
今日は展示品の数々を、ご紹介致します。



実は23日、24日の二日間に、展示品自体はほとんど変わりませんでしたが、配置位置は要所要所で変わりました。今からここでご紹介するのは、24日特別展終了時の展示ですので、ご了承下さい。


まず市民会館の入り口から入り、市立図書館脇の階段を3階に上がっていきますと、同級生2,3名がお出迎え。
「下吉田てくてくMAP 志村正彦編」と記念の葉書(2005年6月17日に新宿ロフトで撮影されたライブ写真)を手渡して下さいます。
テーブルの上には、このブログでもご紹介した海外のフジファブリックファンが描いた志村君のポートレートが置かれています。

目を前方に移すと全面ガラスの大きな窓から、白い大きな富士山が。
その横には志村會の時に花富士の頂上に掲げられていた、大きな大きな志村正彦君の写真が飾られています。ちょうど志村君と富士山が並ぶように飾られていて、写真の白いフレームと、白い富士山が相俟って、本当に美しかったのを思い出します。

写真の前を少し歩くと、右手にはファンの方々から志村君に送られた色紙や手紙がところ狭しと、通路脇の展示パネルに飾られています。女の方、男の方、子供さん・・・。本当に多くの人に愛されているんだな、と感じました。

「手紙を下さい。手紙はとても勇気づけられます。お恥ずかしながら。インディーズの頃から今までファンの皆様から頂いた手紙だけは全て取って置いてあります。一通たりとも捨ててません。家に保管してあります。なのでよろしければ是非。」と、志村日記でいっていた志村君(「東京、音楽、ロックンロール」2009年3月16日付け)。
ご両親がその気持ちを今も大切になさっていて、ファンの気持ちが込められた手紙、絵、色紙の数々は、すべて保管してあるそうです。



皆さんの思いを目の当たりにして、すでにウルウルしながら展示室に入ると、インディーズ時代のライブ写真が沢山飾られています。(この中の一枚が、入り口で頂いた記念のポストカードです)


この添え書きの上にライブ写真と飾られていたのが、フジファブリックファンに広く知られる「ミニーちゃんTシャツ」です。



このTシャツは、2005年Rising Sung Rock Festivalのライブ映像でもご覧頂けます。ミニーちゃんの柄が少し古びていて、時の経過を感じるな・・・と、感傷的になっていたら、これは元々そういうデザインのTシャツなんだそうです。そういえば袖周りなどもところどころ破れていたけれど、洗濯であそこまではなりませんものね。


ライブ写真を感慨深く眺めていると、楽しそうな男の子の声が聞こえてきます。
「なんだろう・・・?」と聞いていると、志村君の同級生が「まさひことの思い出」を楽しそうにしゃべっています!

横を見ると、突如赤いベンチが出現。


ベンチの上には、こんな添え書きが。


これぞ地元ならではの展示といえましょう。
私は個人的に、この赤いベンチが数ある展示品の中で一番好きでした。

夢を熱く語り合ったり、どうでもいいことをだらだらとしゃべったり、好きな異性の話をしたり・・・、志村君も普通の中学生と同じように、そんなことをしていたんだな、と当たり前のことを思いました。きっとミュージシャンになる夢も、友達に熱く語っていたのでしょうね。
このベンチは、志村君の後輩野球チームの監督さんから提供されたものだそうです。

「フジファブリック 志村正彦」以前の、「志村正彦」を感じられる人気コーナーでした。


ところで、ここまでの写真をみてお気づきの方も多いと思いますが、この企画展、すべてダンボールで統一されていました。
「気取らない雰囲気を出すために」と、同級生の皆さんが自らペンを取り、ダンボールに一枚一枚添え書きを書いていきました。そのダンボールが、志村君の母校、下吉田第一小学校から借りてきた楽譜台の上に置かれていて、「路地裏の僕たち」に似合った素朴な感じが最高でした。

次回は、いよいよ衣裳と楽器をご紹介致します。

Tuesday 3 January 2012

2012年 明けましておめでとうございます

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皆様、2012年明けましておめでとうございます。
旧年中はたくさんのご縁をいただき、ありがとうございました。
今年も、どうぞよろしくお願い致します。

山梨県地方、お天気続きの穏やかなお正月が続いております。
(志村正彦展のときほどの冷え込みもなく、あのときが一番寒かったかも・・・。)
甲府からも、雪化粧をしたきれいな富士山が見えています。

「一富士 二鷹 三なすび」
皆さんの初夢はいかがでしたか。

皆さんにとって、2012年が実り多き素晴らしい年となりますように、
お祈りしております。
そして今年もご一緒に、フジファブリック、志村正彦君を応援していけたら幸いです。

年明け初めての記事は、引き続き「志村正彦展」を予定しております。いま少し、お待ち下さい。

今日の一曲は、「ダンス2000」です。ノリノリのフジファブリックを、お楽しみ下さい!